大川小学校遺族、石巻市を相手取り23億円の損賠提訴 問われる安全配慮義務責任

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大川小学校遺族、石巻市を相手取り23億円の損賠提訴 問われる安全配慮義務責任

なぜ惨劇回避は、可能
石巻市立大川小学校 の検証84名の尊い命・納得がいかない

石巻市の北上川の河口から5〜6km上流の川辺に緑にかこまれた小さな町と、全校児童108人のこれまた小さなきれいな学校があった。この学校の全校児童と先生80人前後が死亡か不明であることを最初に報じたのは、毎日新聞(私の記憶では)だったと思う。大津波の大混乱の中きちんとした取材がなされていたが・・・でも、本当なのだろうか、半信半疑の気持で大川小学校に電話を入れてみた。二度電話を入れた。しかし「プー・プー・プー」という音が虚しく響いてくるのみ。それから数日たって東京新聞の夕刊に変わり果てた学校の姿をみて、厳しい現実であることを受け入れることが出来た。

大川小学校は、以下写真のようにとてもきれいな学校だ。小さな町だが、郵便局も、警察も、役所も揃った田園風景と北上川の流れがとけあう美しい町だった。昨年帰宅後録画していたテレビ映像の中に以下画像が紹介されていた。参照と記録のために引用させていただきます。



東日本大震災で、児童の7割以上が犠牲になった学校は、他に無い。

石巻市立大川小学校のブログを最後に書いてから、その後、触れたくなかったには、上記のような理由からである。児童74人と教員10人が命を落とした。そのうち児童4人、教員1人が依然行方不明のままである。

心が痛むが、東日本大震災で何千という学校が被災したが、児童生徒の7割が亡くなるという学校は、大川小学校を除いて他に無かったいう事実は覆せない。このことから、酷な言い方で大変申し訳ないが、この惨劇は防げた可能性が高いと見ている。以下理由。

1.大川小学校は、石巻市の北上川の河口から5〜6km上流に位置していたが、川からは、写真からもわかるように、かなり近い。恐らく200m〜300m以内だと思われる。

2.河口からかなり離れていた為、津波は来ないだろうとの思い込みは、誰しも考えていたことであるが、他の学校は、99%以上が高台等に避難していたことから、考えても、川から近いことを考えれば、スマトラ沖地震や、過去のこの地域の津波のことも、考慮に入れるべきで、落ち着いている場合ではない。本校までの津波の遡及を想定しなかったとは考えられない。

3.大川小学校の裏は、山になっており、助かった教諭1人と児童4人は、全て、この山に駆け上がって助かっている。

4.地震発生時、1・2年生は下校。何人かが残っていた。3年〜6年生が学校に居た。

5.地震発生後15分経過した段階で、学校に居た児童全員の点呼を完了している。

6.その直後から、避難経路をめぐる意見が出る。
 ・「山へにげよう・・教員。・・山へ逃げたほうがよいとの意見が若干多い・・児童証言から」
 ・「学校へ居たほうが安全・・教員・・理由、木が倒れる等、危険や登りにくい。」
 ・これに、避難してきた地区の住民が加わり、両者の意見に介入する。
 ●この時点で、学校の校庭へも防災無線から「大津波警報、高台へ避難して下さい。」とのアナウンスが流れ続ける。
 ●6年生のA君は、「防災の無線が予想される津波の高さを3mから6mとさらに10mと徐々に高くなることを警告のアナウンスを聞いていた。
 ・さらに高台への避難を呼びかけ続けたが、突然、アナウンスが切れる。
7. 1年生児童が「山へ登る?」と聞いたら某先生が「登れない、危ないから ダメ!」と答える。
 ●教員の何人かは、今動くより、学校に居たほうが安全だと過信していた。避難したほうがよいと進言し迎えに来た母親に「お母さん、落ち着いて下さい」等逆に諌める。
 ●地域住民の意見が「学校へ居たほうが安全」、わざわざ学校へ来て「津波が来るからすぐに逃げろ!」と警告した住民に分かれる。
 ●教員・地域住民とも、意見対立が起き、判断を遅らせたものと思われる。学校が、避難の主導権を躊躇したための混乱が起きたのだろう。

8.地震発生から45分後の3時半前後、石巻市役所の広報車が最終警告をおこなっていた。
 
 ●拡声器で、津波が、長面(ながつら)の松林を越えてきていると」高台への避難を呼びかける。

9.同広報車に乗っていた石巻市の課長補佐が教頭に「津波がきます。どうしますか。危なくても山へ逃げますか。」と問うが、教頭は、答えない。

 ●この時点で、ようやく間垣の上の堤防が安全だということで、避難を開始するが、学校の前ではなく、あえて、最短距離ではない山沿いの道を通る。

 ●この時点で、時既に遅く、児童、教員らの前から津波が来るのが見えてきた。
 ●最後列に居た某教諭は、山へ駆け上がり助かった。他に山へ登った児童の何人かが助かった。あいにく、小雪の為、滑って山へ登りきる時間が足りなかった。

10.結論 大津波は十分予見し、回避する事は可能であった。
 
  
.津波が来る事は、何人かの教員が話していたことから、当初から想定していた。但し、それほど深刻なものとは、考えなかった過信がある。
地震後発生後15分後に、防災無線が「大津波警報が発令され高台への避難を呼びかける。そのうえに、津波の高さが3mから6m、10mとたかくなり、危機が迫っている事」を警告し続けた。
親、地域住民、市の職員までもが、山へ逃げることを進言していた。但し、教頭・教員・地域住民の避難を巡る意見対立が続いていた。・・・・これが最大の不幸の原因である。
こ惺擦蓮非常時、自らの命にも代えても、児童生徒を命を守る義務を負う。
ゲ召法教員や、地域住民の意見対立があったとしても、児童生徒が一番確実に保護できる場所へ、避難する指示を強力に打ち出すべきである。
市の広報車は、既に、一刻の猶予も無いことを警告しており、小さい子どもや、年よりは、教員や地域住民が背負ってでも、山へ登るべき選択をしなくてはならない。

Δ靴しながら、これほど大規模な大津波は、経験した者がなく、また、大川地区まで、津波が来た記録も無い。想定を超えた事情考慮しても、他の99.9%以上の学校では大半の児童生徒が無事に避難している事実は覆せないことから考えると、教員等への日ごろの指導を怠っていた設置者である石巻市の責任は免れるはずが無い。

即ち、それは、強力な指導力と避難指示を出せなかった学校の責任も免れないことになる。

*****これは、あくまでも、週刊現代3月5日発売の小野一光氏の記事が、正確であると確信していることが前提です。ここで述べた責任とは、一般的な責任論です。現場に居なかった者が安易な判断を下す事は出来ません。しかし、同じ情況にありながら、99.9%以上の学校の児童生徒は、殆んど無事に保護されていた事実を覆す事は出来ません。

あらためて、亡くなられた、74人のお子さん、また、最後まで、子ども達の命を守ろうとされた10人の先生方の御冥福を謹んでお祈りいたします。







以下記事は、参照と記録のため河北新聞から引用させていただきました。

 大川小は震災時、児童数108人だった。無事だった34人のうち28人が登校。全員で黙とうし、死亡が確認された児童56人を悼み、不明の18人を案じた。教職員も休暇だった柏葉照幸校長らを除く10人が不明となり、うち7人の死亡が確認された。あいさつで柏葉校長は「力を合わせみんなで頑張っていこう」と呼び掛けたという。

 登校時は少し表情が硬かった児童たちも、久しぶりの仲間との再会を抱き合って喜び、一緒に遊具で遊ぶ姿も見られた。
 この日は、学校から保護者へ事故時の様子が説明された。学校によると、地震時は下校準備中で児童全員が校庭に避難。裏山は倒木で危険と判断し、校舎内への避難も検討した後、新北上大橋方面への避難を始めた途中で津波に襲われたという。
 新年度の授業は、飯野川一小など他校の教室を借りて行う方向。「被災した児童に役立ててほしい」と、住民からは中古のランドセルや文房具などの善意が届いている。




◎「なぜ多くの犠牲」/保護者ら膨らむ疑問

 津波で多数の児童が犠牲になった石巻市大川小。最愛のわが子を奪われた親は、がれきに埋もれた校舎や避難所で29日を迎えた。頭をよぎるのは「学校はなぜ、子どもの命を守れなかったのか」との思い。日ごとに膨らむ疑問と説明不足への不満は、学校に対する不信感に変わりつつある。
 大川小周辺では29日も、消防団や自衛隊、警察など数十人態勢での捜索活動が続いた。子どもが行方不明になっている親たちも連日、捜索に加わっている。
 3姉妹の末娘の6年生愛さん(12)が行方不明になっている会社員狩野孝雄さん(42)も、毎日のように現場を歩く。「学校にいれば大丈夫、校舎の2階にでも避難していると思っていた」という。なぜこれほどの犠牲が出たのか、裏山に避難できなかったのか―。足を運ぶたびに、次々と疑問が浮かぶ。



 捜索活動は校舎周辺がほぼ終わり、29日は校舎東側の沼で行われた。「見つからないかもしれない」と狩野さん。「下校中、一人で被害に遭わなかっただけよかった。友達と一緒だったから」
 3年生の息子が行方不明になっている40代の父親は、市内の避難所から、各地の遺体安置所に通う日々が続く。学校からは、当時の状況について説明がない。「津波から逃げる時間は十分にあったはず。学校は子どもが犠牲になった親一人一人に説明すべきだ」と憤る。

 「今頃は卒業しているはずだったのに」と話すのは、6年生の息子を失った30代の母親。自宅は津波に流され、避難所に身を寄せる。「卒業証書でも、卒業アルバムでも、息子の思い出が欲しいが、子どもを失った親に学校からの連絡はない」と涙を浮かべた。
 6年生の息子を亡くした男性は、時間が過ぎ、冷静さを取り戻すにつれて悔しさが増す。「誰が悪いではなく、徹底的に検証してほしい。今後のために子どもたちの死を無駄にしてほしくない」と語気を強めた。

 以下写真は東京新聞3月23日夕刊より記録の為引用させていただきました。

大川小学校遺族、23億円損賠提訴へ、安全配慮義務責任を問う 悲痛な訴え

JUGEMテーマ:学校のこと
 なぜ惨劇回避は、可能石巻市立大川小学校 の検証84名の尊い命・納得がいかない

石巻市の北上川の河口から5〜6km上流の川辺に緑にかこまれた小さな町と、全校児童108人のこれまた小さなきれいな学校があった。この学校の全校児童と先生80人前後が死亡か不明であることを最初に報じたのは、毎日新聞(私の記憶では)だったと思う。大津波の大混乱の中きちんとした取材がなされていたが・・・でも、本当なのだろうか、半信半疑の気持で大川小学校に電話を入れてみた。二度電話を入れた。しかし「プー・プー・プー」という音が虚しく響いてくるのみ。それから数日たって東京新聞の夕刊に変わり果てた学校の姿をみて、厳しい現実であることを受け入れることが出来た。

大川小学校は、以下写真のようにとてもきれいな学校だ。小さな町だが、郵便局も、警察も、役所も揃った田園風景と北上川の流れがとけあう美しい町だった。昨年帰宅後録画していたテレビ映像の中に以下画像が紹介されていた。参照と記録のために引用させていただきます。



東日本大震災で、児童の7割以上が犠牲になった学校は、他に無い。

石巻市立大川小学校のブログを最後に書いてから、その後、触れたくなかったには、上記のような理由からである。児童74人と教員10人が命を落とした。そのうち児童4人、教員1人が依然行方不明のままである。

心が痛むが、東日本大震災で何千という学校が被災したが、児童生徒の7割が亡くなるという学校は、大川小学校を除いて他に無かったいう事実は覆せない。このことから、酷な言い方で大変申し訳ないが、この惨劇は防げた可能性が高いと見ている。以下理由。

1.大川小学校は、石巻市の北上川の河口から5〜6km上流に位置していたが、川からは、写真からもわかるように、かなり近い。恐らく200m〜300m以内だと思われる。

2.河口からかなり離れていた為、津波は来ないだろうとの思い込みは、誰しも考えていたことであるが、他の学校は、99%以上が高台等に避難していたことから、考えても、川から近いことを考えれば、スマトラ沖地震や、過去のこの地域の津波のことも、考慮に入れるべきで、落ち着いている場合ではない。本校までの津波の遡及を想定しなかったとは考えられない。

3.大川小学校の裏は、山になっており、助かった教諭1人と児童4人は、全て、この山に駆け上がって助かっている。

4.地震発生時、1・2年生は下校。何人かが残っていた。3年〜6年生が学校に居た。

5.地震発生後15分経過した段階で、学校に居た児童全員の点呼を完了している。

6.その直後から、避難経路をめぐる意見が出る。
 ・「山へにげよう・・教員。・・山へ逃げたほうがよいとの意見が若干多い・・児童証言から」
 ・「学校へ居たほうが安全・・教員・・理由、木が倒れる等、危険や登りにくい。」
 ・これに、避難してきた地区の住民が加わり、両者の意見に介入する。
 ●この時点で、学校の校庭へも防災無線から「大津波警報、高台へ避難して下さい。」とのアナウンスが流れ続ける。
 ●6年生のA君は、「防災の無線が予想される津波の高さを3mから6mとさらに10mと徐々に高くなることを警告のアナウンスを聞いていた。
 ・さらに高台への避難を呼びかけ続けたが、突然、アナウンスが切れる。
7. 1年生児童が「山へ登る?」と聞いたら某先生が「登れない、危ないから ダメ!」と答える。
 ●教員の何人かは、今動くより、学校に居たほうが安全だと過信していた。避難したほうがよいと進言し迎えに来た母親に「お母さん、落ち着いて下さい」等逆に諌める。
 ●地域住民の意見が「学校へ居たほうが安全」、わざわざ学校へ来て「津波が来るからすぐに逃げろ!」と警告した住民に分かれる。
 ●教員・地域住民とも、意見対立が起き、判断を遅らせたものと思われる。学校が、避難の主導権を躊躇したための混乱が起きたのだろう。

8.地震発生から45分後の3時半前後、石巻市役所の広報車が最終警告をおこなっていた。
 
 ●拡声器で、津波が、長面(ながつら)の松林を越えてきていると」高台への避難を呼びかける。

9.同広報車に乗っていた石巻市の課長補佐が教頭に「津波がきます。どうしますか。危なくても山へ逃げますか。」と問うが、教頭は、答えない。

 ●この時点で、ようやく間垣の上の堤防が安全だということで、避難を開始するが、学校の前ではなく、あえて、最短距離ではない山沿いの道を通る。

 ●この時点で、時既に遅く、児童、教員らの前から津波が来るのが見えてきた。
 ●最後列に居た某教諭は、山へ駆け上がり助かった。他に山へ登った児童の何人かが助かった。あいにく、小雪の為、滑って山へ登りきる時間が足りなかった。

10.結論 大津波は十分予見し、回避する事は可能であった。
 
  
.津波が来る事は、何人かの教員が話していたことから、当初から想定していた。但し、それほど深刻なものとは、考えなかった過信がある。
地震後発生後15分後に、防災無線が「大津波警報が発令され高台への避難を呼びかける。そのうえに、津波の高さが3mから6m、10mとたかくなり、危機が迫っている事」を警告し続けた。
親、地域住民、市の職員までもが、山へ逃げることを進言していた。但し、教頭・教員・地域住民の避難を巡る意見対立が続いていた。・・・・これが最大の不幸の原因である。
こ惺擦蓮非常時、自らの命にも代えても、児童生徒を命を守る義務を負う。
ゲ召法教員や、地域住民の意見対立があったとしても、児童生徒が一番確実に保護できる場所へ、避難する指示を強力に打ち出すべきである。
市の広報車は、既に、一刻の猶予も無いことを警告しており、小さい子どもや、年よりは、教員や地域住民が背負ってでも、山へ登るべき選択をしなくてはならない。

Δ靴しながら、これほど大規模な大津波は、経験した者がなく、また、大川地区まで、津波が来た記録も無い。想定を超えた事情考慮しても、他の99.9%以上の学校では大半の児童生徒が無事に避難している事実は覆せないことから考えると、教員等への日ごろの指導を怠っていた設置者である石巻市の責任は免れるはずが無い。

即ち、それは、強力な指導力と避難指示を出せなかった学校の責任も免れないことになる。

*****これは、あくまでも、週刊現代3月5日発売の小野一光氏の記事が、正確であると確信していることが前提です。ここで述べた責任とは、一般的な責任論です。現場に居なかった者が安易な判断を下す事は出来ません。しかし、同じ情況にありながら、99.9%以上の学校の児童生徒は、殆んど無事に保護されていた事実を覆す事は出来ません。

あらためて、亡くなられた、74人のお子さん、また、最後まで、子ども達の命を守ろうとされた10人の先生方の御冥福を謹んでお祈りいたします。







以下記事は、参照と記録のため河北新聞から引用させていただきました。

 大川小は震災時、児童数108人だった。無事だった34人のうち28人が登校。全員で黙とうし、死亡が確認された児童56人を悼み、不明の18人を案じた。教職員も休暇だった柏葉照幸校長らを除く10人が不明となり、うち7人の死亡が確認された。あいさつで柏葉校長は「力を合わせみんなで頑張っていこう」と呼び掛けたという。

 登校時は少し表情が硬かった児童たちも、久しぶりの仲間との再会を抱き合って喜び、一緒に遊具で遊ぶ姿も見られた。
 この日は、学校から保護者へ事故時の様子が説明された。学校によると、地震時は下校準備中で児童全員が校庭に避難。裏山は倒木で危険と判断し、校舎内への避難も検討した後、新北上大橋方面への避難を始めた途中で津波に襲われたという。
 新年度の授業は、飯野川一小など他校の教室を借りて行う方向。「被災した児童に役立ててほしい」と、住民からは中古のランドセルや文房具などの善意が届いている。




◎「なぜ多くの犠牲」/保護者ら膨らむ疑問

 津波で多数の児童が犠牲になった石巻市大川小。最愛のわが子を奪われた親は、がれきに埋もれた校舎や避難所で29日を迎えた。頭をよぎるのは「学校はなぜ、子どもの命を守れなかったのか」との思い。日ごとに膨らむ疑問と説明不足への不満は、学校に対する不信感に変わりつつある。
 大川小周辺では29日も、消防団や自衛隊、警察など数十人態勢での捜索活動が続いた。子どもが行方不明になっている親たちも連日、捜索に加わっている。
 3姉妹の末娘の6年生愛さん(12)が行方不明になっている会社員狩野孝雄さん(42)も、毎日のように現場を歩く。「学校にいれば大丈夫、校舎の2階にでも避難していると思っていた」という。なぜこれほどの犠牲が出たのか、裏山に避難できなかったのか―。足を運ぶたびに、次々と疑問が浮かぶ。



 捜索活動は校舎周辺がほぼ終わり、29日は校舎東側の沼で行われた。「見つからないかもしれない」と狩野さん。「下校中、一人で被害に遭わなかっただけよかった。友達と一緒だったから」
 3年生の息子が行方不明になっている40代の父親は、市内の避難所から、各地の遺体安置所に通う日々が続く。学校からは、当時の状況について説明がない。「津波から逃げる時間は十分にあったはず。学校は子どもが犠牲になった親一人一人に説明すべきだ」と憤る。

 「今頃は卒業しているはずだったのに」と話すのは、6年生の息子を失った30代の母親。自宅は津波に流され、避難所に身を寄せる。「卒業証書でも、卒業アルバムでも、息子の思い出が欲しいが、子どもを失った親に学校からの連絡はない」と涙を浮かべた。
 6年生の息子を亡くした男性は、時間が過ぎ、冷静さを取り戻すにつれて悔しさが増す。「誰が悪いではなく、徹底的に検証してほしい。今後のために子どもたちの死を無駄にしてほしくない」と語気を強めた。

 以下写真は東京新聞3月23日夕刊より記録の為引用させていただきました。

なぜ惨劇の回避は可能、石巻市立大川小学校検証84名の尊い命・納得できない

JUGEMテーマ
 
なぜ石巻市立大川小学校 惨劇回避は可能の検証84名の尊い命・納得できない

石巻市の北上川の河口から5〜6km上流の川辺に緑にかこまれた小さな町と、全校児童108人のこれまた小さなきれいな学校があった。この学校の全校児童と先生80人前後が死亡か不明であることを最初に報じたのは、毎日新聞(私の記憶では)だったと思う。大津波の大混乱の中きちんとした取材がなされていたが・・・でも、本当なのだろうか、半信半疑の気持で大川小学校に電話を入れてみた。二度電話を入れた。しかし「プー・プー・プー」という音が虚しく響いてくるのみ。それから数日たって東京新聞の夕刊に変わり果てた学校の姿をみて、厳しい現実であることを受け入れることが出来た。

大川小学校は、以下写真のようにとてもきれいな学校だ。小さな町だが、郵便局も、警察も、役所も揃った田園風景と北上川の流れがとけあう美しい町だった。昨年帰宅後録画していたテレビ映像の中に以下画像が紹介されていた。参照と記録のために引用させていただきます。



東日本大震災で、児童の7割以上が犠牲になった学校は、他に無い。

石巻市立大川小学校のブログを最後に書いてから、その後、触れたくなかったには、上記のような理由からである。児童74人と教員10人が命を落とした。そのうち児童4人、教員1人が依然行方不明のままである。

心が痛むが、東日本大震災で何千という学校が被災したが、児童生徒の7割が亡くなるという学校は、大川小学校を除いて他に無かったいう事実は覆せない。このことから、酷な言い方で大変申し訳ないが、この惨劇は防げた可能性が高いと見ている。以下理由。

1.大川小学校は、石巻市の北上川の河口から5〜6km上流に位置していたが、川からは、写真からもわかるように、かなり近い。恐らく300m〜500m以内だと思われる。

2.河口からかなり離れていた為、津波は来ないだろうとの思い込みは、誰しも考えていたことであるが、他の学校は、99%以上が高台等に避難していたことから、考えても、川から近いことを考えれば、スマトラ沖地震や、過去のこの地域の津波のことも、考慮に入れるべきで、落ち着いている場合ではない。本校までの津波の遡及を想定しなかったとは考えられない。

3.大川小学校の裏は、山になっており、助かった教諭1人と児童4人は、全て、この山に駆け上がって助かっている。

4.地震発生時、1・2年生は下校。何人かが残っていた。3年〜6年生が学校に居た。

5.地震発生後15分経過した段階で、学校に居た児童全員の点呼を完了している。

6.その直後から、避難経路をめぐる意見が出る。
 ・「山へにげよう・・教員。・・山へ逃げたほうがよいとの意見が若干多い・・児童証言から」
 ・「学校へ居たほうが安全・・教員・・理由、木が倒れる等、危険や登りにくい。」
 ・これに、避難してきた地区の住民が加わり、両者の意見に介入する。
 ●この時点で、学校の校庭へも防災無線から「大津波警報、高台へ避難して下さい。」とのアナウンスが流れ続ける。
 ●6年生のA君は、「防災の無線が予想される津波の高さを3mから6mとさらに10mと徐々に高くなることを警告のアナウンスを聞いていた。
 ・さらに高台への避難を呼びかけ続けたが、突然、アナウンスが切れる。
7. 1年生児童が「山へ登る?」と聞いたら某先生が「登れない、危ないから ダメ!」と答える。
 ●教員の何人かは、今動くより、学校に居たほうが安全だと過信していた。避難したほうがよいと進言し迎えに来た母親に「お母さん、落ち着いて下さい」等逆に諌める。
 ●地域住民の意見が「学校へ居たほうが安全」、わざわざ学校へ来て「津波が来るからすぐに逃げろ!」と警告した住民に分かれる。
 ●教員・地域住民とも、意見対立が起き、判断を遅らせたものと思われる。学校が、避難の主導権を躊躇したための混乱が起きたのだろう。

8.地震発生から45分後の3時半前後、石巻市役所の広報車が最終警告をおこなっていた。
 
 ●拡声器で、津波が、長面(ながつら)の松林を越えてきていると」高台への避難を呼びかける。

9.同広報車に乗っていた石巻市の課長補佐が教頭に「津波がきます。どうしますか。危なくても山へ逃げますか。」と問うが、教頭は、答えない。

 ●この時点で、ようやく間垣の上の堤防が安全だということで、避難を開始するが、学校の前ではなく、あえて、最短距離ではない山沿いの道を通る。

 ●この時点で、時既に遅く、児童、教員らの前から津波が来るのが見えてきた。
 ●最後列に居た某教諭は、山へ駆け上がり助かった。他に山へ登った児童の何人かが助かった。あいにく、小雪の為、滑って山へ登りきる時間が足りなかった。

10.結論 児童らの避難は、十分可能であった、学校の責任は免れない
 
  
.津波が来る事は、何人かの教員が話していたことから、当初から想定していた。但し、それほど深刻なものとは、考えなかった過信がある。
地震後発生後15分後に、防災無線が「大津波警報が発令され高台への避難を呼びかける。そのうえに、津波の高さが3mから6m、10mとたかくなり、危機が迫っている事」を警告し続けた。
親、地域住民、市の職員までもが、山へ逃げることを進言していた。但し、教頭・教員・地域住民の避難を巡る意見対立が続いていた。・・・・これが最大の不幸の原因である。
こ惺擦蓮非常時、自らの命にも代えても、児童生徒を命を守る義務を負う。
ゲ召法教員や、地域住民の意見対立があったとしても、児童生徒が一番確実に保護できる場所へ、避難する指示を強力に打ち出すべきである。
市の広報車は、既に、一刻の猶予も無いことを警告しており、小さい子どもや、年よりは、教員や地域住民が背負ってでも、山へ登るべき選択をしなくてはならない。

Δ靴しながら、これほど大規模な大津波は、経験した者がなく、また、大川地区まで、津波が来た記録も無い。想定を超えた事情考慮しても、他の99.9%以上の学校では大半の児童生徒が無事に避難している事実は覆せないことから考えると、教員等への日ごろの指導を怠っていた設置者である石巻市の責任は免れるはずが無い。

即ち、それは、強力な指導力と避難指示を出せなかった学校の責任も免れないことになる。

*****これは、あくまでも、週刊現代3月5日発売の小野一光氏の記事が、正確であると確信していることが前提です。ここで述べた責任とは、一般的な責任論です。現場に居なかった者が安易な判断を下す事は出来ません。しかし、同じ情況にありながら、99.9%以上の学校の児童生徒は、殆んど無事に保護されていた事実を覆す事は出来ません。

あらためて、亡くなられた、74人のお子さん、また、最後まで、子ども達の命を守ろうとされた10人の先生方の御冥福を謹んでお祈りいたします。


東日本大震災で、児童の7割以上が犠牲になった学校は、他に無い。

石巻市立大川小学校のブログを最後に書いてから、その後、触れたくなかったには、上記のような理由からである。児童74人と教員10人が命を落とした。そのうち児童4人、教員1人が依然行方不明のままである。

心が痛むが、東日本大震災で何千という学校が被災したが、児童生徒の7割が亡くなるという学校は、大川小学校を除いて他に無かった。このことから、酷な言い方で大変申し訳ないが、この惨劇は防げた可能性が高いと見ている。以下理由。

1.大川小学校は、石巻市の北上川の河口から5〜6km上流に位置していたが、川からは、写真からもわかるように、かなり近い。恐らく300m〜500m以内だと思われる。

2.河口からかなり離れていた為、津波は来ないだろうとの思い込みは、誰しも考えていたことであるが、他の学校は、99%以上が高台等に避難していたことから、考えても、川から近いことを考えれば、スマトラ沖地震や、過去のこの地域の津波のことも、考慮に入れるべきで、落ち着いている場合ではない。本校までの津波の遡及を想定しなかったとは考えられない。

3.大川小学校の裏は、山になっており、助かった教諭1人と児童4人は、全て、この山に駆け上がって助かっている。

4.地震発生時、1・2年生は下校。何人かが残っていた。3年〜6年生が学校に居た。

5.地震発生後15分経過した段階で、学校に居た児童全員の点呼を完了している。

6.その直後から、避難経路をめぐる意見が出る。
 ・「山へにげよう・・教員。・・山へ逃げたほうがよいとの意見が若干多い・・児童証言から」
 ・「学校へ居たほうが安全・・教員・・理由、木が倒れる等、危険やのぼりにくい。」
 ・これに、避難してきた地区の住民が加わり、両者の意見に介入。
 ●この時点で、学校の校庭へも「大津波警報、高台へ避難して下さい。」とのアナウンスが流れる。
 ●6年生のA君は、「防災の無線が予想される津波の高さを3mから6mと徐々に高くなることを警告
  ・さらに高台への避難を呼びかけ続けたが、突然、アナウンスが切れる。
7. 1年生児童が「山へ登る?」と聞いたら某先生が「登れない、危ないからダメ!」と答える。
 ●教員の何人かは、今動くより、学校に居たほうが安全だと過信していた。迎えに来た母親に「お母さん、落ち着いて下さい」等諌める。
 ●地域住民の意見が「学校へ居たほうが安全」とわざわざ学校へ来て「津波が来るからすぐに逃げろ!」と警告した住民も居る。
 ●教員・地域住民とも、意見対立が起き、判断を遅らせたものと思われる。学校が、避難の主導権を躊躇したための混乱が起きたのだろう。

8.地震発生から45分後の3時半前後、石巻市役所の広報車が最終警告をおこなっていた。
 
 ●拡声器で、津波が、長面(ながつら)の松林を越えてきていると」高台への避難を呼びかける。

9.同広報車に乗っていた石巻市の課長補佐が教頭に「津波がきます。どうしますか。危なくても山へ逃げますか。」と問うが、教頭は、答えない。

 ●この時点で、ようやく間垣の上の堤防が安全だということで、避難を開始するが、学校の前ではなく、あえて、最短距離ではない山沿いの道を通る。

 ●この時点で、時既に遅く、児童、教員らの前から津波が来るのが見えてきた。
 ●最後列に居た某教諭は、山へ駆け上がりたすがった。他に山へ登った児童の何人かが高かった。あいにく、小雪の為、滑って山へ登りきる時間がたりなかった。

10.結論
 
  
.津波が来る事は、何人か教員がはなしていたことから、当初から想定していた。但し、それほど深刻なものとは、考えなかった過信がある。
◆γ録霧緘生後15分後に、大津波警報が発令され高台への避難を呼びかける。そのうえに、津波の高さが3mから6m、10mとたかくなり、危機が迫っている事を警告し続けた。
親、地域住民、市の職員までもが、山へ逃げることを進言していた。但し、教頭・教員・地域住民の避難を巡る意見対立が続いていた。・・・・これが最大の不幸の原因である。
こ惺擦蓮非常時、自らの命にも代えても、児童生徒を守る義務を負う。
ゲ召法意見対立、地域住民の意見対立があったとしても、児童生徒が一番確実に保護できる場所へ避難する指示を強力に打ち出すべきである。
市の広報車は、既に、一刻の猶予も無いことを警告しており、小さい子どもや、年よりは、教員や地域住民が背負ってでも、山へ登るべき選択をしなくてはならない。

Δ靴しながら、これほど大規模な大津波は、経験した者がなく、また、大川地区まで、津波が来た記録も無い。想定を超えた事情考慮しても、他の学校でも大半の児童生徒が無事に避難していることから考えると設置者である石巻市の責任はまぬかれるはずが無い。

よって、これは、強力指導力とな避難指示を出せなかった学校の責任も免れない。

*****これは、あくまでも、週刊現代3月5日発売の小野一光氏の記事が、正確であると確信していることが前提です。ここで述べた責任とは、一般的な責任論です。現場に居なかった者が安易な判断を下す事は出来ません。しかし、同じ情況にありながら、99.9%以上の学校の児童生徒は、殆んど無事に保護されていた事実を覆す事は出来ません。

あらためて、亡くなられた、74人のお子さん、また、最後まで、子ども達の命を守ろうとされた10人の先生方の御冥福を謹んでお祈りいたします。







以下記事は、参照と記録のため河北新聞から引用させていただきました。

 大川小は震災時、児童数108人だった。無事だった34人のうち28人が登校。全員で黙とうし、死亡が確認された児童56人を悼み、不明の18人を案じた。教職員も休暇だった柏葉照幸校長らを除く10人が不明となり、うち7人の死亡が確認された。あいさつで柏葉校長は「力を合わせみんなで頑張っていこう」と呼び掛けたという。

 登校時は少し表情が硬かった児童たちも、久しぶりの仲間との再会を抱き合って喜び、一緒に遊具で遊ぶ姿も見られた。
 この日は、学校から保護者へ事故時の様子が説明された。学校によると、地震時は下校準備中で児童全員が校庭に避難。裏山は倒木で危険と判断し、校舎内への避難も検討した後、新北上大橋方面への避難を始めた途中で津波に襲われたという。
 新年度の授業は、飯野川一小など他校の教室を借りて行う方向。「被災した児童に役立ててほしい」と、住民からは中古のランドセルや文房具などの善意が届いている。




◎「なぜ多くの犠牲」/保護者ら膨らむ疑問

 津波で多数の児童が犠牲になった石巻市大川小。最愛のわが子を奪われた親は、がれきに埋もれた校舎や避難所で29日を迎えた。頭をよぎるのは「学校はなぜ、子どもの命を守れなかったのか」との思い。日ごとに膨らむ疑問と説明不足への不満は、学校に対する不信感に変わりつつある。
 大川小周辺では29日も、消防団や自衛隊、警察など数十人態勢での捜索活動が続いた。子どもが行方不明になっている親たちも連日、捜索に加わっている。
 3姉妹の末娘の6年生愛さん(12)が行方不明になっている会社員狩野孝雄さん(42)も、毎日のように現場を歩く。「学校にいれば大丈夫、校舎の2階にでも避難していると思っていた」という。なぜこれほどの犠牲が出たのか、裏山に避難できなかったのか―。足を運ぶたびに、次々と疑問が浮かぶ。



 捜索活動は校舎周辺がほぼ終わり、29日は校舎東側の沼で行われた。「見つからないかもしれない」と狩野さん。「下校中、一人で被害に遭わなかっただけよかった。友達と一緒だったから」
 3年生の息子が行方不明になっている40代の父親は、市内の避難所から、各地の遺体安置所に通う日々が続く。学校からは、当時の状況について説明がない。「津波から逃げる時間は十分にあったはず。学校は子どもが犠牲になった親一人一人に説明すべきだ」と憤る。

 「今頃は卒業しているはずだったのに」と話すのは、6年生の息子を失った30代の母親。自宅は津波に流され、避難所に身を寄せる。「卒業証書でも、卒業アルバムでも、息子の思い出が欲しいが、子どもを失った親に学校からの連絡はない」と涙を浮かべた。
 6年生の息子を亡くした男性は、時間が過ぎ、冷静さを取り戻すにつれて悔しさが増す。「誰が悪いではなく、徹底的に検証してほしい。今後のために子どもたちの死を無駄にしてほしくない」と語気を強めた。

 以下写真は東京新聞3月23日夕刊より記録の為引用させていただきました。


なぜ惨劇回避は可能、石巻市立大川小学校の検証84名の尊い命・納得がいかない

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なぜ惨劇回避は、可能石巻市立大川小学校 の検証84名の尊い命・納得がいかない

石巻市の北上川の河口から5〜6km上流の川辺に緑にかこまれた小さな町と、全校児童108人のこれまた小さなきれいな学校があった。この学校の全校児童と先生80人前後が死亡か不明であることを最初に報じたのは、毎日新聞(私の記憶では)だったと思う。大津波の大混乱の中きちんとした取材がなされていたが・・・でも、本当なのだろうか、半信半疑の気持で大川小学校に電話を入れてみた。二度電話を入れた。しかし「プー・プー・プー」という音が虚しく響いてくるのみ。それから数日たって東京新聞の夕刊に変わり果てた学校の姿をみて、厳しい現実であることを受け入れることが出来た。

大川小学校は、以下写真のようにとてもきれいな学校だ。小さな町だが、郵便局も、警察も、役所も揃った田園風景と北上川の流れがとけあう美しい町だった。昨年帰宅後録画していたテレビ映像の中に以下画像が紹介されていた。参照と記録のために引用させていただきます。



東日本大震災で、児童の7割以上が犠牲になった学校は、他に無い。

石巻市立大川小学校のブログを最後に書いてから、その後、触れたくなかったには、上記のような理由からである。児童74人と教員10人が命を落とした。そのうち児童4人、教員1人が依然行方不明のままである。

心が痛むが、東日本大震災で何千という学校が被災したが、児童生徒の7割が亡くなるという学校は、大川小学校を除いて他に無かったいう事実は覆せない。このことから、酷な言い方で大変申し訳ないが、この惨劇は防げた可能性が高いと見ている。以下理由。

1.大川小学校は、石巻市の北上川の河口から5〜6km上流に位置していたが、川からは、写真からもわかるように、かなり近い。恐らく300m〜500m以内だと思われる。

2.河口からかなり離れていた為、津波は来ないだろうとの思い込みは、誰しも考えていたことであるが、他の学校は、99%以上が高台等に避難していたことから、考えても、川から近いことを考えれば、スマトラ沖地震や、過去のこの地域の津波のことも、考慮に入れるべきで、落ち着いている場合ではない。本校までの津波の遡及を想定しなかったとは考えられない。

3.大川小学校の裏は、山になっており、助かった教諭1人と児童4人は、全て、この山に駆け上がって助かっている。

4.地震発生時、1・2年生は下校。何人かが残っていた。3年〜6年生が学校に居た。

5.地震発生後15分経過した段階で、学校に居た児童全員の点呼を完了している。

6.その直後から、避難経路をめぐる意見が出る。
 ・「山へにげよう・・教員。・・山へ逃げたほうがよいとの意見が若干多い・・児童証言から」
 ・「学校へ居たほうが安全・・教員・・理由、木が倒れる等、危険や登りにくい。」
 ・これに、避難してきた地区の住民が加わり、両者の意見に介入する。
 ●この時点で、学校の校庭へも防災無線から「大津波警報、高台へ避難して下さい。」とのアナウンスが流れ続ける。
 ●6年生のA君は、「防災の無線が予想される津波の高さを3mから6mとさらに10mと徐々に高くなることを警告のアナウンスを聞いていた。
 ・さらに高台への避難を呼びかけ続けたが、突然、アナウンスが切れる。
7. 1年生児童が「山へ登る?」と聞いたら某先生が「登れない、危ないから ダメ!」と答える。
 ●教員の何人かは、今動くより、学校に居たほうが安全だと過信していた。避難したほうがよいと進言し迎えに来た母親に「お母さん、落ち着いて下さい」等逆に諌める。
 ●地域住民の意見が「学校へ居たほうが安全」、わざわざ学校へ来て「津波が来るからすぐに逃げろ!」と警告した住民に分かれる。
 ●教員・地域住民とも、意見対立が起き、判断を遅らせたものと思われる。学校が、避難の主導権を躊躇したための混乱が起きたのだろう。

8.地震発生から45分後の3時半前後、石巻市役所の広報車が最終警告をおこなっていた。
 
 ●拡声器で、津波が、長面(ながつら)の松林を越えてきていると」高台への避難を呼びかける。

9.同広報車に乗っていた石巻市の課長補佐が教頭に「津波がきます。どうしますか。危なくても山へ逃げますか。」と問うが、教頭は、答えない。

 ●この時点で、ようやく間垣の上の堤防が安全だということで、避難を開始するが、学校の前ではなく、あえて、最短距離ではない山沿いの道を通る。

 ●この時点で、時既に遅く、児童、教員らの前から津波が来るのが見えてきた。
 ●最後列に居た某教諭は、山へ駆け上がり助かった。他に山へ登った児童の何人かが助かった。あいにく、小雪の為、滑って山へ登りきる時間が足りなかった。

10.結論 大津波は十分予見し、回避する事は可能であった。
 
  
.津波が来る事は、何人かの教員が話していたことから、当初から想定していた。但し、それほど深刻なものとは、考えなかった過信がある。
地震後発生後15分後に、防災無線が「大津波警報が発令され高台への避難を呼びかける。そのうえに、津波の高さが3mから6m、10mとたかくなり、危機が迫っている事」を警告し続けた。
親、地域住民、市の職員までもが、山へ逃げることを進言していた。但し、教頭・教員・地域住民の避難を巡る意見対立が続いていた。・・・・これが最大の不幸の原因である。
こ惺擦蓮非常時、自らの命にも代えても、児童生徒を命を守る義務を負う。
ゲ召法教員や、地域住民の意見対立があったとしても、児童生徒が一番確実に保護できる場所へ、避難する指示を強力に打ち出すべきである。
市の広報車は、既に、一刻の猶予も無いことを警告しており、小さい子どもや、年よりは、教員や地域住民が背負ってでも、山へ登るべき選択をしなくてはならない。

Δ靴しながら、これほど大規模な大津波は、経験した者がなく、また、大川地区まで、津波が来た記録も無い。想定を超えた事情考慮しても、他の99.9%以上の学校では大半の児童生徒が無事に避難している事実は覆せないことから考えると、教員等への日ごろの指導を怠っていた設置者である石巻市の責任は免れるはずが無い。

即ち、それは、強力な指導力と避難指示を出せなかった学校の責任も免れないことになる。

*****これは、あくまでも、週刊現代3月5日発売の小野一光氏の記事が、正確であると確信していることが前提です。ここで述べた責任とは、一般的な責任論です。現場に居なかった者が安易な判断を下す事は出来ません。しかし、同じ情況にありながら、99.9%以上の学校の児童生徒は、殆んど無事に保護されていた事実を覆す事は出来ません。

あらためて、亡くなられた、74人のお子さん、また、最後まで、子ども達の命を守ろうとされた10人の先生方の御冥福を謹んでお祈りいたします。







以下記事は、参照と記録のため河北新聞から引用させていただきました。

 大川小は震災時、児童数108人だった。無事だった34人のうち28人が登校。全員で黙とうし、死亡が確認された児童56人を悼み、不明の18人を案じた。教職員も休暇だった柏葉照幸校長らを除く10人が不明となり、うち7人の死亡が確認された。あいさつで柏葉校長は「力を合わせみんなで頑張っていこう」と呼び掛けたという。

 登校時は少し表情が硬かった児童たちも、久しぶりの仲間との再会を抱き合って喜び、一緒に遊具で遊ぶ姿も見られた。
 この日は、学校から保護者へ事故時の様子が説明された。学校によると、地震時は下校準備中で児童全員が校庭に避難。裏山は倒木で危険と判断し、校舎内への避難も検討した後、新北上大橋方面への避難を始めた途中で津波に襲われたという。
 新年度の授業は、飯野川一小など他校の教室を借りて行う方向。「被災した児童に役立ててほしい」と、住民からは中古のランドセルや文房具などの善意が届いている。




◎「なぜ多くの犠牲」/保護者ら膨らむ疑問

 津波で多数の児童が犠牲になった石巻市大川小。最愛のわが子を奪われた親は、がれきに埋もれた校舎や避難所で29日を迎えた。頭をよぎるのは「学校はなぜ、子どもの命を守れなかったのか」との思い。日ごとに膨らむ疑問と説明不足への不満は、学校に対する不信感に変わりつつある。
 大川小周辺では29日も、消防団や自衛隊、警察など数十人態勢での捜索活動が続いた。子どもが行方不明になっている親たちも連日、捜索に加わっている。
 3姉妹の末娘の6年生愛さん(12)が行方不明になっている会社員狩野孝雄さん(42)も、毎日のように現場を歩く。「学校にいれば大丈夫、校舎の2階にでも避難していると思っていた」という。なぜこれほどの犠牲が出たのか、裏山に避難できなかったのか―。足を運ぶたびに、次々と疑問が浮かぶ。



 捜索活動は校舎周辺がほぼ終わり、29日は校舎東側の沼で行われた。「見つからないかもしれない」と狩野さん。「下校中、一人で被害に遭わなかっただけよかった。友達と一緒だったから」
 3年生の息子が行方不明になっている40代の父親は、市内の避難所から、各地の遺体安置所に通う日々が続く。学校からは、当時の状況について説明がない。「津波から逃げる時間は十分にあったはず。学校は子どもが犠牲になった親一人一人に説明すべきだ」と憤る。

 「今頃は卒業しているはずだったのに」と話すのは、6年生の息子を失った30代の母親。自宅は津波に流され、避難所に身を寄せる。「卒業証書でも、卒業アルバムでも、息子の思い出が欲しいが、子どもを失った親に学校からの連絡はない」と涙を浮かべた。
 6年生の息子を亡くした男性は、時間が過ぎ、冷静さを取り戻すにつれて悔しさが増す。「誰が悪いではなく、徹底的に検証してほしい。今後のために子どもたちの死を無駄にしてほしくない」と語気を強めた。

 以下写真は東京新聞3月23日夕刊より記録の為引用させていただきました。

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